投稿

主日礼拝2021年10月17日 10時30分~11時20分
「告げ知らされる喜び」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章2~6節

どなたでもどうぞ 【ネット中継は <Youtube>】 同時に新型ウイルス対策に協力をお願いします ・朝に検温ください。 ・37℃(平熱+1℃)以上の方は来会をご遠慮下さい ・マスクの着用をお願いします(受付にも用意) ・受付にて手指の消毒をお願いします ・礼拝堂では座席の間隔をあけて着席してください ・1階集会室でも礼拝をできるようにしています ・ネット中継の再配信 <Youtube> 向河原教会 説教一覧

主日礼拝2021年10月10日
「神と共にある命」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章40~11章1節

[録音] [録画] Youtube 向河原教会 説教一覧

主日礼拝2021年10月3日
「誰のために生きるのか」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書10章34~39節

[録音] [録画] Youtube 向河原教会 説教一覧

主日礼拝2021年9月26日
「なぜ、恐れないでいられるのか」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章26~33節

[録音] [録画] Youtube 「恐れるな」と主は語られます。 「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。これは主イエスが、この後に人々から受けるもの(26章)ですが、迫害を予告されている弟子たち、キリスト者たちも、歴史的に迫害を受けました。    「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」。人が殺すことのできる体と、敵対者、迫害する者たちがどんなに願っても殺すことのできない魂との区別があります。迫害する者たちは、体しか痛めつけることはできません。どんなに体を傷つけても、キリストを信じる心が折れないキリスト者を迫害者たちは恐れていました。   力や権力が私たちを抑え込もうとすることを考えると恐ろしく感じます。けれども、主イエスがおっしゃっていることは、時代と共に変化する事柄です。渦中にいるときには、耐え難い苦しみですが、迫害を経験してきた者たちが語り伝える、恐れるべきものは、時代の策略、評価、人の評価、人々の思想の流れではないのだと主は語ります。   どんなに悪事を隠そうとも、必ず明るみに出るのだと言います(26節)。それは人の目にはわからない様に隠しているものだとしても、神の目に隠しておけるものはありません。そして主は、神の思い、神の悲しみこそ覚えなさいと言われているのです。   恐れるべき方である神について、主イエスは、雀と私たちの髪の毛一本すらも数えておられる方だと語ります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」。ルカ福音書では、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」(12:6)。セット売りにして、おまけをつけないと、それ単体では価値が無く、一羽では値もつかないのです。人が「価値なし」と決めた、おまけの雀すらも神は知っているのす。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない」ほどに、神は全てのものに目を留めておられます。「あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」と主は言われます。雀と比べたら、人の価値はその何倍もだ!わかるでしょう?というように。   また、数え切れないほどの例として「髪の毛」が取り上げられています。だれも髪の毛を数えることはできません。髪の毛が床に落ちてもゴミになり、とるに足らないものです。けれども、一方で人は、生まれた子どもの髪の毛を筆にしてみたり、取ってお

主日礼拝2021年9月19日
「信じているからこその苦しみ」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章16~25節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは12人の弟子を呼び集め、派遣するその時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われます。それは「逃れられない迫害を受ける」ということです。  狼の群れは、敵対するもの、食い尽くそうとするものです。わたしたちの周りにある、習慣というものが、キリスト者の信仰、生活、行いを飲み込もうとするのではないかと思います。神棚や仏壇とどう折り合いつけていこうかと思ったことがないでしょうか。家の宗教と私の信仰。そのようなことに迷いが、悩みが起こるかもしれません。迫害とは言いませんが、向かい風に思うことはあるでしょう。些細なことから、長年苦しさを抱えたり、これで良いのだろうかと迷いながら歩んできた方もいるかもしれません。  でも決して、そのようなことに対抗しなさいと主は言いません。 羊の姿のままで、でも「蛇のように賢く、鳩のように素直に」、と言われます。蛇の賢さは創世記3:1に記され、鳩の素直さは、イザヤ60:8や、ノアの箱舟でオリーブの葉をくわえてまっすぐ帰るべきところ(主の元)に戻ってくる姿を思い起こします。   迫害を予告されながらも主に従うのは、その人だけに与えられた使命を担うからなのだと思います。そしてそれぞれに必要に応て、「父の霊」が私たちの中にあり、語らせてくださいます。 全ての人に、神からの呼び出しがあり、あらゆる職業、手の業に、繰り返される日々の中に、命が通う。大切な働きになるのです。何を持って働くか、多くの場合、自分の好きなこと、自分の価値が上がることを判断基準にして選ぼうとします。それも大切です。けれども、神からの召し、神があなたを呼びだしている。という視点により、自分の仕事に誇りを取り戻すことができます。 そうすると、苦難を受けてでも、なぜ「耐え忍ぶ者は救われる」と言われるのか、なぜ「狼の群れに羊を送り込む」のか。少し見えてくるような気がします。   羊と狼が相互に睦まじく生活する、というのは、聖書が語る、終末論的平和です(イザヤ11:6、65:25)。それと重ねるように言われます。そのような時はまだ来ていないから、羊と狼はまだ平和には過ごせません。けれども暴力を受ける、狙われる、その事は分かっていても、羊として無防備でなければならないのです。イザヤの言葉に「害することも滅ぼすこともない、」とあるよう

主日礼拝2021年9月12日
「キリストの派遣」上野 峻一 先生
マタイによる福音書10章5~15節

[録音] [録画] Youtube  本日の聖書の箇所から、主イエスが12人の弟子たちを派遣するにあたって、その具体的な指示が記されていきます。  第11章までの残り第10章のすべてが、主イエスが弟子たちに命じられた内容となっています。主イエスが、弟子たちに一体どのようなことを命じられたのか、その内容を深く知り、理解することは、私たちにとっては重要なことであると考えます。なぜなら、私たちもまた、キリストの弟子として派遣されるからです。  主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」と言われます。弟子たちを遣わされる対象や地域を限定します。福音書全体からすれば、このことは少々驚くべきことです。このマタイ福音書の最後には、主イエスは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われます。またヨハネ福音書やルカ福音書では、ユダヤ人以外の異邦人、サマリアの地域での活動もあります。しかし、主イエスは「まず」イスラエルの失われた羊のところへと、弟子たちを派遣されます。イスラエルの失われた羊とは、はるか昔から、神の民として救いが約束されていたユダヤ人たちです。そこへと、まず訪れて、救いの出来事を、主イエス・キリストの福音を語るように言われます。   その派遣されたところで語られる内容は、「天の国は近づいた」ということです。つまり、神さまの方から私たちに近づいて来られるのです。私たち地上の国、世界に、神がおられる天の国が近づいてくると、一体どうなるのでしょうか。それが、8節以下に続きます。病人が癒やされ、死者が生き返り、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊が追い払われます。大変驚くべき出来事です。そんなことが起こるのかと思ってしまいます。これは、私たち人間の価値観や常識ではなくて、神さまがご支配される世界で生きることを意味しています。  主イエス・キリストによって、天の国は到来しました。ただし、まだ完成はしていません。今は完成の途上にあります。主イエスの到来によって、天の国は既に来たが、しかし、終わりの日の完成を目指して進んでいるのです。そこでの働きは、すべて「ただ」です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」この「ただ」という言葉は、「贈り物」や「賜物」「恵み」とも訳すことのできる言葉です。神さまの一方的な恵みを受けた私たちは

主日礼拝2021年9月5日
「誰でも良くない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章1~4節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは「弟子を呼び寄せ」ました。その弟子の名前を一人一人、聖書は記しています。教会の最初の姿が描かれているように思います。    私たちが主イエスに従う弟子となったのは、主が先立って私たちを選び、呼んでくださるからです。そのように聖書は示しています。弟子が師を選ぶのではなく、私たちが主の弟子にふさわしくなくても、その私たちを承知で選んでくださった主に信頼をして、従うのです。   「十二人の弟子」は、主イエスが人々に神の国が近づいていることを伝える働き、神の支配が始まっている、そのことを一緒に伝える働き手として呼ばれています。「収穫は多いが、働き手が少ない」(9:37)。この言葉を受けて、10章1節から弟子の話が始まります。「12」とはイスラエルの部族の数です。「新しいイスラエル」、「新しくその歴史を始める神の民」として主イエスは彼らをお選びになりました。そして今は、「教会」という共同体が、古いイスラエルに代わって「新しいイスラエル」、「神の民」として召されています。 選ばれたのは、宗教的指導者でも何でもなく、多くは漁師でした。選ばれた者たちは皆優れた人とは言い難いかもしれません。主イエスに従っているのに、教えの言葉の意味がわからない。主イエスのことが信じられない。裏切る。そのような者たちです。しかし、主イエスはそのような弟子、そして私たちを必要とし名を呼んでいます。   人が自分とチームを組んでくれる人を探したり、グループを作るときには、よく人を選ぶと思います。しかし主の選びは、人間の選択とは違っています。教会の中を見るとわかります。集う人たちが様々な環境から来て、様々な年齢、共通点を持たない人たちです。神に招かれ、呼ばれている人たちは自ら志願してゆくのとは異なります。  これまでの人生の歩みの背景も仕事も考え方も違う一人一人を、神がそのままを愛し、招いてくださっています。その呼びかけに気が付いていても聞かなかった過去や、神などいないと背を向けてきた長い時間を、主イエスの十字架の犠牲によって、赦されているのです。その救いを信じることにより、赦されるのです。そのことだけが共通していることです。私たち一人一人は違いますし、人と比べて優れているかとか、そういう見方もされません。 「あなた方がわたしを選んだのではない、私が

主日礼拝2021年8月29日
「収穫は多いが、働き手が少ない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章35~38節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは「収穫は多いが働き手が少ない。」と言いました 。ここで言われる働き手が少ないと言うのは、教会で働く伝道者が少ないのだと言うことです。   主イエスは救いを求める人々の中を歩き、癒しを行いながら、多くの村々を歩き、人々に触れてきました。その主イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。 「憐れむ」というのは、私たちにとって、現状が良い状態にないからこそ憐れまれるのです。同情とか、可哀そうという言葉や感情を浮かべるかもしれません。聖書の「憐れむ」は「腹わたが痛む」こと。相手を見て、自分の体が痛むほどに、同じ痛みを味わっているのです。他人事ではなく、自分事になります。神の愛が、人には真似できないほどの愛であるように、神の憐れみは、人が憐れむこととは違います。 主イエスが外で見ていた人々の姿、飼い主のいない羊のようだといった人々の姿は、主イエスを知るか知らないかということや、日本のような伝道の困難な国と言われるような姿を見て、まだクリスチャンではないから、収穫が多いと言ったのではありません。 主イエスの目に映っていた人々とは、旧約聖書にはっきりと描かれています。   旧約の時代、国が戦争に出かける時、預言者が始めなさいと宣言をします。王は戦争に出るときには預言者を呼んで、この戦争は良いか悪いかと聞かなければなりません。多くの預言者はこの戦争に勝つと言ってお送り出します。しかし、預言者ミカヤと言うものだけは王の戦死を預言しました。 「イスラエルの人が皆飼い主のいない羊のように散り散りになっているの私はみました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」(列王記上22:17)。 軍隊を率いる王が戦死する軍隊ほど悲しく惨めなものはありません。正しい指導者がいないと軍は散り散りになって逃げるしかありません。 主イエスは、国に対して誠実ではない王のもとで人々が疲れ果て、打ちひしがれているのをご覧になっています。望みを失った民は、後は滅びに向かって散り散りになっていくしかないです。そういう民の姿に、主は憐れまれたのです。希望がないのです。その現実を見て、主イエスは「収穫は多い」と言います。   希望がない中で、なぜ